『コモンズ――the future of ideas』メモ
ローレンス・レッシグ氏は、サイバー空間とアイディア空間の環境保護活動家のようだ。コントロールすべきものと、コントロールすべきでないもの(正確には、コントロールを最小化すべくコントロールすること)とのデリケートなバランスを模索しつつ、可能な限り、イノベーションにオープンな社会を求めている。
本来コモンズ(共有地)であるはずの地上が、私有地に切り分けられながらも、公道や公園といった人が自由に行き来できる場を残すことで、私達は散歩ができ、休息でき、イマジネーションを膨らませることができるのと似ている。
私が最初に“アイディア”について思いを馳せたのはいつだったろう? 自分が頭の中で考えていたことが、ある本にそっくりそのまま書かれているのを眼にしたり、無意識に口ずさんでいたメロディが、突然ラジオから流れてきたのを耳にしたり……「あれ? 私のこのアイディアは、一体誰のものだろう??」――― そんな風に感じたことはないだろうか? “知的財産”なんて堅苦しい言葉でなく、生まれ落ちて成長する過程で、そりゃー数多くの“先人の知恵”に触れる。自分の頭から出てくるアイディアは、こうした先人の知恵の土台の上にチョコンと乗っかったミカンみたいなものだ。でも、時折、ものすごく画期的なアイディアを産む人というのがいる。特許制度というのは、そういう画期的なアイディアに敬意を表して、ある一定期間は独占的に、その人にそのアイディアの起源を保証することだと思っていた。
けれど、現代の特許制度は、かなり違った形に進化しているとレッシグ氏は言う。特に、ソフトウェア特許とビジネスモデル特許、そして著作権の拡大。せっかく、広大なコモンズを提供できるインターネットというサイバー空間が生まれたのに、時代はどんどん、そのコモンズを狭め、すべてを私有地化する方向に動いているというのだ。サイバー空間を豊かにしてきた人の多くは、ネット空間が私有地化されることを望んでいないのに、権益を守りたい巨大な旧勢力によって、新しい空間ががんじがらめのコントロール下に置かれようとしている。
私自身、ミッキーマウスのポルノは見たくないし、iPS細胞の国際特許で日本が潤ってくれたらと願いもする。でも、本書を読んでみて、コントロールのしすぎはイノベーションを阻害するということには強く納得した。とても広範で難しい問題なので、私ごときが大した感想も述べられないのだけれど、本書で最も感動した部分を抜粋して、メモとしたい。(アメリカ初の特許庁審査官、トマス・ジェファソンの言葉……P.154より)
―― もし自然がその他すべてのものに比べて排他的財産権の対象となりにくいものを作ったとすれば、それはアイデアと呼ばれる思考力の行いである。これは、その人が自分一人で黙っている限り、独占的に保持できる。でもそれが明かされた瞬間に、それはどうしても万人の所有へと向かってしまう。そして受け手はそれを所有しなくなることはできない。またその特異な性格として、ほかのみんながその全体を持っているからといって、誰一人その保有分が少なくなるわけではないということだ。私からアイデアを受け取ったものは、その考え方を受け取るけれど、それで私の考え方が少なくなったりはしない。それは私のろうそくから自分のろうそくに火をつけた者が、私の明かりを減らすことなく明かりを受け取ることができるようなものだ。人類の道徳と相互の叡智のために、そして人間の条件の改善のために、アイデアが人から人へ世界中に自由に伝わるということは、自然によって特に善意をもって設計されたようで、それは火と同じく、あらゆる空間に広がることができて、しかもどの点でもその密度は衰えることがない。またわれわれが呼吸し、その中を動き回り、物理的存在をその中に置いている空気と同じく、閉ざすことも排他的な占有も不可能になっている。つまり発明は自然の中においては、財産権の対象とはなり得ない。――
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