(caution!caution! ネタバレ注意!)
―――これから観る方はお読みになりませぬよう―――
(正直、最初の10分ほどは、「なぜ、この作品がアカデミー賞?!」という思いが頭をもたげたのだが・・・・・・)
「うまいんだなぁ、これが、、困ったことに……」
ベテラン納棺師が、フグの白子を炙り、塩を振って頬張ったときの台詞。
私にはこの一言が、現代人の抱える様々な“コマッタ感”を象徴している気がして、ずっと心に残っている。
まだ文字も生まれていないくらいの大昔、人は生まれてから死ぬまで、自分の食べるものは自分で殺し、家族が死ねば自分たちで遺体を葬っていたはずなのだ。それがいつしか、生きるための殺生も、身近な人の最期のお清めも、分業分業で人任せにするようになってしまった。分業することで様々なプロフェッショナルが生まれ、人がより高度な暮らしを送れるようになったことは確か。そんな暮らしに味をしめ、もっと快適にもっとおいしくもっと楽に……尽きせぬ欲望が経済を回す。文字を持たない未開の人が、石に想いを込めて大切な人に贈ったような、言葉にならない優しさを持っていたのに、文明が豊かになるとともに貴賎や差別が生まれるというのは皮肉なことだと思う。自らの手を汚さずにおいしいものを食べているという自覚を持ちつつも、それでもうまいものはうまい……困ったものだ、、、そんな感じ。
と、別にこの映画はグルメ映画ではなく、納棺師という仕事をめぐる悲喜こもごもを丁寧に追った、まさにプロデューサーの思惑通り“笑って泣けて深く心を打つ”映画なのだ。本木さん扮する大悟という新米納棺師の所作の美しさ、山崎さん扮するベテラン納棺師の言葉少なな味わい、広末さん扮する大悟の妻のしなやかな包容力、その他、銭湯のおかみさんや焼き場のおじさん、NKエージェントの事務の女性、弔いの場の親族の人たちなどなど、すべての役どころがいい具合に渾然一体となって、味わい深い作品に仕上がっていた。NKエージェントという“旅立ちのお手伝い”をする会社が、「うちは仏教でもキリスト教でもイスラムでもヒンズーでもOK」と謳っていたところなど、日本人のユニバーサルな死生観までうまく表現していたような気がする。『納棺夫日記』の著者の方は、「死者がどこへ旅立つのかが表現されていなかった」とおっしゃっていたけれど、この映画にとってはそれは大きな問題ではないように思えた。“死は究極の平等”というのも、ちょっと違う気がした。巷では本作が“死”に真正面からスポットライトを当てているように評しているけれど、私には“生死”の讃歌に見えた。本木さんが込めた想い、小山さんが込めた想い、滝田監督やプロデューサーの方々が込めた想い、それらがチェロの音色に乗って重層的に様々な登場人物に化体して表現されていたようで、簡単には感想が述べられないのが辛いところ。
私は正直、ペットの金魚とアヒルの赤ちゃんを弔った経験しかなく、親戚の弔事では参列するのみでまだ済んでいるから、納棺師の仕事というものをナマで観たことがない。そのせいか、そんなシーンを想像するだけでも涙が溢れてきてしまうのだけれど、厳然とした“死”を前にしたときの静謐な気持ちは、金魚やアヒルでさえ味わわざるをえない。いわんや人間をや、だ。いろんな人がいろんな気持ちで観た作品だろう。。。
ゲンコツのようなお父さんから大悟への石文と、チャボの卵みたいな大悟からお父さんへの石文が、不思議な安心感を与えてくれていた。スタッフ&キャストの皆々様、素敵な映画をどうもありがとうございました。
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