『不実な美女か 貞淑な醜女か』
ロシア語同時通訳者として、そして優れたエッセイストとして、その有能さを各界に轟かせた米原万里さんの代表作。本書はある意味、ロシア語通訳協会がクライアントに最初に手渡す留意事項を並べた小冊子のデラックス版ともいえるのではなかろうか。これを一冊読んでから通訳を依頼すれば、クライアントは、言葉に対して注意深くならざるをえないだろう。
それにしても、“エ勝手リーナ”とも呼ばれる米原さんは、大胆不敵な豪傑のイメージが強いけれど、その文章からは、ものすごく慎重で細やかな精神を感じる。そして、通訳業に対する誇りと、弛まない仕事のクオリティアップを追及する彼女の、いわば懺悔録のようにも読めた。どんな仕事でも、OJTで失敗を重ねて成長するものだと思うけれど、それらの失敗を忘れず活かすための、そして世界中の人とのコミュニケーションに関して、あらゆる人たちに配慮を促すための、格好の教科書と言えるかもしれない。
なかでも、1990年12月のシュワルナゼ外務大臣の辞任演説を訳したときの米原さんの回顧部分と、アンドレイ・サハロフ氏のパレスチナ問題に関する発言を訳したときの回顧部分には、彼女の徹底したプロ意識が如実に表現されていて涙が出た。「おまえの母ちゃんデベソ」考も、おもしろかったなぁ! 処女作的な初期の作品なので、簡潔・明瞭・大胆な米原さんの文章にしては冗長な箇所もあるにはあった気がするが、ともかく、“言葉”について考えてみたい人には、エリツィンもびっくりの素敵な本。是非ご一読を!
巻末の「あとがき」に、本書を企画したのが、現スタジオジブリ出版部長となられた柳沢因さんだとあって、驚きとともに嬉しくなった。今は“田居”さんとなられているこの方とは、私も一度だけお話させていただいたことがあるけれど、本当に“美女”な上、米原さん同様、ご自身のお仕事に誇りをもって凛として取り組んでおられる素敵な方だった。尊敬する編集者の一人だ。彼女が米原さんに声をかけなければ、素晴らしい書き手が本書をものすることもなかったのかもしれないと思うと、編集者の黒子魂にも誇りをもてるというものだ。
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