ずいぶん前に着手したレッシグ先生の『REMIX』を、今頃ようやく読了。これを読んでいるさなか、まさに本書の問題提起に関連するようなケースに遭遇したので記しておこう。
それは、夏休みの宿題をしている息子の問題行為。リビングの机で宿題をしながら彼、愛用のi Pad2を隣に据えて、ラジカセよろしく次々と自分の聞きたい曲をYouTubeで検索してはかけていたのだ。そのほとんどは遊戯王のOP/EDテーマで、アニメーションとセットでアップされているもの。見るに見かねて、やんわりと釘をさした。
「あのさぁ、それって法律違反になるかもしれないって知ってる?」
「えっ、なんで?」と心外の面持ち。
「権利者に無断でアップされてるものだからね」
(YouTubeは、権利者からクレームがくれば即削除する体制だし、基本的にダウンロードを認めていないから、視聴したから即違法ということではないけれど……)
「でもさ、友達の家でDVD見せてもらうのと何が違うのさ?」
「だって、それアップしてる人は別に友達じゃないでしょ?」
「でもさ、アクセスできるんだから友達みたいなもんじゃない? インターネットでは“友達の友達は皆友達”だよ。先祖さかのぼればみんな親戚みたいなもんでしょ。」
(いや~、どっちかっていうと、蚤の市で“盗品です”って表示されてる絵画を鑑賞するような感じでは?)
「でも、その曲の印税で家族を養ってる人もいるかもしれないんだよ?」
「そんなこと言われても…曲作り以外で食べていけるようにすればいいんじゃない?」
(一足の草鞋だって大変な世の中で、二足の草鞋履くのがどれだけ大変か……)
子どもと、こんな会話になったことのある方がいれば、是非その後の対処法をお聞かせ願いたい。私はといえば、YouTubeは現状そのままにしてしまっている。。。
今回の本は、日本以上にシビアな著作権保護に揺れるアメリカの現状を憂慮して書かれている。堅くまとめるなら、商業経済と共有経済とそのハイブリッド経済についての考察だ。コンテンツビジネスに関わる人には、他人事ではないと思う。
保護を強く求めすぎるより、これからは“意図的なスピルオーバー”によって、“外部”であったものを“内部化”する工夫が必要だというのがレッシグ先生の主張。その点、日本のコンテンツ産業の方々は、少なくともアメリカよりは大らかに対応しているように見える(依然コミケは健在だし)。日本のクリエーターやコンテンツホルダーは、自分たちも最初はコピーやリミックスから教育されたことをよく自覚している、と言えるのかもしれない。
最終章の「法を変える」「われわれを変える」という部分が、今回はいちばんおもしろかったかな、と思う。特に、アメリカで議論されているという“著作権の自動的保護は14年に限定して、それ以降は権利者の登録により権利存続を認めるようにすべき”という提案の一つは、日本でも検討してみる価値があるように感じた。
いまや、誰一人として著作権に相対せずには1時間と過ごせなくなりつつある現在、とかく不透明さの多い著作権の権利範囲をもっと明確に使いやすくする必要性を強く感じた。また、現行の著作権法では、権利者に独占権を与える半面、過度な監視義務をも課しているのだという視点は新鮮だった。文化の発展を目的とする著作権が、後進の自由な創作や、先導者の創作への専念を阻みすぎることのないよう、これまた保護と利用のバランスが重要なんだなー。
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