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2018年5月27日 (日)

補論「判例講釈の書き方」

 先々週、参考資料として読むことになった『民法研究ハンドブック』内の補論、「判例講釈の書き方」。(←この本の目次が、とても洒落ているので、是非一度本書リンクをご覧あれ!)
 少し前に、同期の人に、「どうしてここまで判例に則って考えなきゃいけないのか、、、」と、納得がいかない素振りを見せた私を見透かしたようなタイミングだったので、冷や汗が出ました(苦笑)。

 「判例」と一口に言っても、狭義・広義で捉え方は異なりますが、事実上、下級審から持ち上がる最終的な最高裁の判決を覆すことができないという意味で、狭義の判例には拘束力があります。それでも、長い時間経過の中で見直され、修正されることもあるわけだし、個々の事件で条件は千変万化するわけだし、とりわけ、変化のスピードが速い昨今は、十数年も前の事件とは、社会的状況が変わっている気がして、駆け出しの学生のような感想を抱いてしまうわけですが、、、
 本論考の中に、こんな記述がありました。
(p.320)――判例というのは、個々の判決を単独で観察することによって抽出されるものとは限らず、それに続く判決の総体によって漸次的に形成されていく側面があることに注意すべきである――
(p.335)――判例理論とは、そのいくつかの判例の結論命題をすべて説明できる共通の理論として、事後的・帰納的に発見されるものである――
 先日、「
法解釈は科学ではなく、ある一面においては、ゲームをプレイする行為と対比できる」という記述を読んだばかりですが、上記の判例理論の解釈は、すごく科学的な感じがしました。これを読んで、判例にあまりに縛られる必要はないけれど、法律家共同体の中で長い時間をかけて積み重ねられてきたものを疎かにしてはいけないことに納得しました。

 ただ、社会人としてある種、片面的に法律を学ばせていただいている身としては、この法律家共同体の判例の捉え方より、より現実的な予防的観測をしても許されるんじゃないかな、、とも思います。
 ある事件についてのディスカッションで、「この場合、こういう状況に陥らないために、被告はどうすべきだったんですか?」という質問が出たことがありました。法律家共同体としては、法的根拠に基づいた“事件の解決”が本来の興味対象なのに対し、いつ当事者になるとも知れない社会人の興味が、“事件の予防”に向かうのは自然なこと。私自身、どの判例を読んでも、一番の興味がそこへ行ってしまい、困ってしまいます。

 本論考には、こんな記述もありました。
(p.322)――重要なことは、内在的な視点に立つ
ことである。学説の意見や批判があってもよいといっても、外在的な批判は意味がない。したがって、確立した判例とその前提を共有しないようなタイプは、判例講釈としては意味がない――
 先日、師匠もおっしゃっていました。「善悪とか感情で結論ありきで考えるなら、大学院に来る必要はない」――。ついつい、法学の作法を無視して、部外者の視点で臨んでしまいがちですが、この点、気を付けないと失礼に当たってしまうんだなぁ…と、反省させられたのでした。。。

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