規制の前に、意見を出し尽くすこと
先日、ハンセン病家族訴訟が熊本地裁で結審した日、『最新差別語不快語』という本を偶然手にしました。実にいろいろな差別語不快語が紹介されており、思わず読みふけってしまったのですが、「ガラケー」も(ガラパゴスの人にとってみれば)ある種の不快語なので、近頃は「フィーチャーフォン」と言わなければいけないのだとか。また、「コラム9」という所に、「障碍者差別の本質とは」という小文があり、『条例のある街』という本の中の逸話が紹介されていました。もしも、ある街で、目の見えない人の方が多くなり、市長や市議会議員の多くが目の見えない人になったら、地球環境にも配慮して街の灯りはすべて撤去しようという条例が通るだろう…と。千葉県で初めて「障碍者差別撤廃条例」が生まれるまでのご苦労が綴られた本らしいのですが、その過程が、現代のデータ保護規則の検討となんとなくシンクロして感じられました。当初は、様々な障碍の種類ごとに、各々が自身の苦労を主張し合うだけだったものが、障碍の種類は違えど共通する悩みや苦労を共有しあえるようになり、だんだんと協力して条例成立に向かうようになり、官民協働して政策立案していく、、、。
ルール作りには、面倒でも、できるだけ多くの人の意見を聴き、バランスよく考えることが大事だな、と思った次第。
一部の先鋭的な人だけの意見に突き動かされてルールが作られると、時に行き過ぎたものになってしまうことも。。。
マスコミの自主規制で、「肉屋」は「精肉店」と、「八百屋」は「青果店」と、「百姓」は「農家」と言い換えることになっているようですが、上記の「ガラケー」も含め、ちょっと行きすぎかもしれないなぁ、、と思ったり(苦笑)。
『条例のある街』の著者の野沢さんという方の言葉が、P.71に掲載されていましたので、引用――ー。
「『障害』の問題の本質は、何かができるか、できないかということではありません。どういう特性をもった人が多数で、どういう特性を持った人が少数なのか、そして多数の人は少数の人のことをわかっているのか、いないのか。障害者差別の本質は、そういうことに尽きるのではないでしょうか。」
一人の人間が持ち合わせるいろんな特性ごとに、多数派になったり少数派になったり、、、。すべてにおいて多数派、という人は稀なのでは、とも思うので、誰しもが、差別される側に立った場合の苦しみに共感できるようになればな、、、と思ったのでした。
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