『超訳 ケインズ「一般理論」』
3分の1強の紙幅を割いて、山形浩生氏が“編・訳・解説”してくださった表題の本を読了。
本扉の次のページに、ケインズの写真があるのですが、その鋭い眼光が、なんとなく同時代人の南方熊楠や高橋是清を思わせました。生粋の文化人で、幼少時からすごーく優秀だったらしい。。。
「社会科学史上で最も影響力のある世界的名著」と一部では言われているらしき、ジョン・メイナード・ケインズの代表作『雇用、利子、お金の一般理論』は既に、山形氏の翻訳で刊行されています。が、576頁もの分量でなかなか手が出なかったところ、今回の超訳の刊行を耳にしました。手っ取り早くケインズに触れられそう…という下心から読み始めたのですが、、、。
読みにく~い! なんだこの厭味ったらしい書きぶりは? 全然“一般”でも“理論”でもないんじゃ??・・・と、当初は不満たらたらな気分でした。「こんな、一部の人にしか理解不能な構成を、よくも許したもんだ…」と、初版本の書誌確認をしたら、Macmillan Cambridge University Press for the Royal Economic Society(1936)。。。学術/大学出版かぁ。。。^^;
以降は観念して読み進めるも、「これって、1916年のアインシュタインの一般相対論に対抗意識燃やして書かれたんじゃ…?」とか、「当時の経済学って、廃棄とか地球環境なんてものは度外視してるんだ…」とか、「いまやマイナス金利の時代なんですけど…」とか「経済学ってこんなにアバウトで恣意的なの??」とか「経済学者って単なるギャンブラーなんじゃ…?」とか、まぁ、心の声を抑えるのが大変大変。144頁までの超訳部分を読むだけで一苦労でした。
ところが、編訳者の解説に入った途端、いきなりケインズにシンパシーが、、、^0^;;。読みにくいながらも、全編通して「失業者を減らすには…」と模索していることだけは感じられた本編の、大きな流れをつかめたせいでしょうか。。。あまりに大雑把でいい加減に感じられた議論も、著者が数学や確率論を研究していたからこそ、むしろ“経済は精緻な数式化には適さない”と達観していたのかも…と思えてくる始末。ケインズに傾倒するわけではないものの、編訳者の思惑にまんまと乗せられて、ケインズの魅力にハマってしまった感じです(笑)。
ただ、2点だけ気になったことがありました。1つは、戦争を“壮絶な公共投資”としていたこと(これも彼独特の嫌味?)。ナイーブかもしれないけれど、これは個人的には絶対に首肯できないと思いました(外部化されているなら尚更!)。もう1つは、編訳者の以下の見解。
「ケインズは経済成長を否定していた、なんて話をときどき聞くけれど、そんなことは絶対ありえないとぼくは思う。『一般理論』は失業が大きな課題だったから、経済成長があまり言及されていないというだけだ」(p.228)
ーーーケインズに対しなんとなく、斜に構えた高慢ちきなインテリ像を抱きつつも、長期的には社会主義的な世界を夢想していたんじゃなかろうか、、、なんて感じてしまったものですから。実務の人だったから、短期的な問題解決を何よりも優先したために、周期性に着眼した解決法を論じることがメインになったのかもしれないけれど、公共投資の重要性や下がらない賃金の議論の裏には、今はやりの“シェア”の精神を垣間見てしまいました。もちろん、“穴を掘って埋める公共事業”よりは、もっとマシな事業がいくらでもあるとは思いますが、、、(ヘタなハコモノを造るよりはエコかも^^;;?)。
ここ最近、20世紀初頭の社会を覗くような読書やドラマ鑑賞が多いのですが、当時の格差社会と、100年後の今の格差社会とでは、富める人たちが経済を学んでいるかいないかで、格差が縮小する方向と拡大する方向への違いが出ているのでは、、、と感じています。21世紀は、勤勉な資本家によって巧妙に隠された形で投資がコントロールされ、富の偏在が極まってきている印象。。。こういう状況を変え、世界中の人が幸福を感じられるようにするのが、経済学者の勤めなんじゃないのかな~、、、と思うのでした。
(それにつけても、この当時の描写の中には大らかな同性愛が頻出します。アラン・チューリングの「イミテーション・ゲーム」の結末との差も、時代の雰囲気なんでしょうか…イギリスのポリマー製の新50ポンド札は、環境保護団体から糾弾されてはいないのかな…?)
| 固定リンク
« 筆(ひつ)ポリゴン | トップページ | 初夏は麺類 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 『壊れた魂』(2023.11.27)
- 『木挽町のあだ討ち』(2023.10.10)
- 『星を継ぐもの』(2023.09.06)
- 『君たちはどう生きるか』(2023.07.29)
コメント