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2021年7月 8日 (木)

100分で名著『維摩経』

 あっという間に「100分で名著『維摩経』」を読了。
 南方熊楠が自らを維摩居士と称していたことを知って、ちょっと興味が湧き、概要把握のために読んでみた本書。
 聖徳太子や武者小路実篤や宮沢賢治など、数多くの文人・知識人にも影響を与えたらしき、ユニークな経典です。単に釈迦の教えを生真面目に伝えるのでなく、ドラマ仕立てで楽しませつつ、いつのまにか“読ませる”、そんな独特の構成になっています。
 維摩という在家者が病気になり、釈迦がお見舞いを使わそうとするのに、十大弟子の誰も行きたがらない。なぜなら、誰もが一度は維摩に“教えの解釈”でやりこめられた経験があり、お見舞いに行ったらまた痛い目をみるのではないかと思ってしまったから。。。
 この時点で、「維摩って、いわゆる“論破”好きの嫌味なオッサンなんじゃ…??」と思ってしまい、なぜ後世の人を魅了するのか、不思議に感じました。
 釈迦をいつまでも困らせるわけにもいかず、文殊菩薩がついに、お見舞いに行くことを引き受けます。すると、これまで断り続けていた者たちも、文殊菩薩と維摩の素晴らしい問答が聴けるに違いない!と、一緒に付いて行くことに…(苦笑)。
 そこからは、「なぜ維摩が病気になったのか」から始まり、様々な仏道にまつわる会話と、不思議な出来事等が描かれます。そして、同行した全員が何かしら目からウロコを落とし、維摩も連れて釈迦のもとに戻り、最後には維摩の正体が明かされて大団円のフィナーレ!
 なんだか、演劇の脚本のようです。そして感服したのは、維摩の説く教えの数々が、現代の理論物理学の解説のようにモダンだったこと。
・すべてのものは要素の集合体で絶えず変化しており、それぞれの関係性の中で成立しているため、垣根は意味をなさない(空である)
・あらゆる人が、「関係性の中にしか在れない」と認識して、他者への慈悲・慈愛の道を歩めば、理想の国が実現する
・「自分」というフィルターを通さず、二項対立的に世界を見なければ、憎悪や差別のない世界が見えてくる
・世俗の中を生きてこそ、究極の仏道である
というような、大乗仏教の理想が説かれています。なにやら、にわか仏教徒のような心持ちにもなりますが、私は典型的な無神論者。それでも、上記のような教えに異論はありません。“インクルージョン”という言葉が昨今のキーワードになっていますが、それに似た思想のようにも思えます。不確定性原理で知られるハイゼンベルクの『部分と全体』や観測問題にも通ずる世界観にも感じられます。
 ーーーということで、本当なら、今世紀初頭前後に発見されたサンスクリット語の原典の翻訳を読んでみたいところですが、なぜ後世の多くの人が、維摩経に惹かれたのか、その魅力はなんとなく本書から理解できた気がします。
 教えは理解できても、それを体現するのはなかなか難しいもの。幼い頃からこうした道徳観を身に付けて、善く生きることを目指すような教育が、現代人には必要かもしれないな~^^;;;。

20210630_2_20210630112401 【今月の名著】 今月の「100分で名著」は、ボーヴォワールの『老い』とのこと。生老病死のうちのひとつですね^^;;。
 しかーし、次なる読書は『父が娘に語る経済の話』^^;;。南方熊楠も維摩も、家が豪商で、お金に苦労していないという点が、“道を究める”上でどんな意味を持ったのか…。ボーヴォワールだって、弁護士と銀行家の娘の間に生まれたブルジョワ階級ですしねぇ…。お金のために働きたくないけれど、お金なしには生きられない。そんな“お金”が動かす“経済”というものの後ろ盾は、国家とか政府なのでしょうが、昨今はそれがいまひとつ信用できなくて、こんな本を読む動機に…(泣)。

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