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2021年8月15日 (日)

杉原千畝展

20210809  先日、百貨店で行われていた「杉原千畝展」を訪問しました。クリスチャンで高校時代の友人が、杉原氏をかねてより絶賛していて、一度は彼の功績をきちんと知りたいな、と思っていたので、良い機会でした。
 は、1900年の元日に、岐阜県で、税務署員の父と、母との間に、次男として誕生。父からはずっと、医者になるようにと言われ続け、学業優秀だったそうなのですが、語学を勉強したいという気持ちから父の意に背き、医専の入試では白紙答案を提出。家を出て早稲田大学へ行き、英語をひたすら勉強。ただ、生活費を稼ぎながらの学業は厳しかったため、外務省の官費留学生に志願して、ロシア語講習生としてハルピンへ。その後の陸軍時代、満州里領事代理時代を経て、外交官に。
 働き盛りの30代、満州事変から第二次世界大戦へと突入し、東欧諸国を転々としながら外交官としての経験を積み、1939年にはリトアニアのカウナスに赴任。1940年には本国の指令に背いて、2千以上のユダヤ人家族に対し、日本通過ビザの発給を続けたとのこと。
 通常の役人なら、本国の指令は絶対。戦時中なら尚更のこと。 一晩悩みに悩んだ末、いずれは免職されることも覚悟で、「当然のことをする」道を選んだ千畝。彼のこの行動のおかげで、何千人のユダヤ人の命が救われたというのに、帰国後は予想通り、外務省から辞職勧告。無職となった彼を、三男や義妹の死が襲う。不遇の時代、語学を活かしながらも職を転々とした千畝。けれど、「杉原ビザ」の受給により生きながらえたユダヤ人との再会をきっかけに、広く功績が認められるようになり、現在に至るーーー。
 このように命のビザを発給した千畝から、その「杉原ビザ」を受け継いだウラジオストク総領事代理の根井三郎氏、ウラジオストクから敦賀への渡航を世話したJTB社員、温かく迎え入れた敦賀や神戸や横浜の人々、たくさんの心ある人達の「命のリレー」により、多くのユダヤ人が日本を経由して世界各国に亡命していったというーーー、奇跡のような連携プレー。
 一般市民は、みんなの代表である政治家に様々な決断を委ね、それに従って生きていますが、時には政治判断が「当然のこと」を見誤ることもある。そんなときでも、自分に出来得る限りのことをする勇気さえあれば、自分の理想の仕事は貫ける・・・そんなことを教えてくれる生き様でした。
(在ベラルーシ日本大使館の現在は、どんな状況なのでしょう…?)

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