心訓で考える知財の本懐?
我が家のリビングには目下、「心訓」という七箇条の訓示が貼ってあります。
(この「心訓」の、真の著作者の生死も、揮毫者も不明のため、題字と署名部分のみ一部掲載)
高校時代の友人が、健康食品と一緒に送ってくれた資料の中に入っていたものです。
「福澤諭吉」と署名してあるので、てっきり福澤先生の言葉だとばかり思い、ありがたがって貼っていたのですが。。。
先月ふと、「どういう経緯で書かれたのかな?」と思い、「心訓」でググってみたところーーー
福澤諭吉研究者の富田正文氏はこれを、「偽作である」とはっきり断言されているのだとか??!
福澤諭吉全集附録に記された、その偽作指摘の文章がまたフルっているのですが^^、結局のところ、いつ・誰が、何の目的で作成したのかは、未だ不明とのこと。
小説家の清水義範氏によれば、諭吉先生が自身の子息に向けて書いた「ひびのおしえ」の中に、以下のような「おさだめ」があったのだとか…。
一、うそをつくべからず。
一、ものをひらふべからず。
一、父母にきかずしてものをもらふべからず。
一、ごうじゃうをはるべからず。
一、兄弟けんくわかたくむよふ。
一、人のうはさかたく無用。
一、ひとのものをうらやむべからず。
(Wikipedia「福澤心訓」より)
おそらくは、これを元に誰かが七訓を万人向けに書き換えた上、諭吉先生作として広めたものと思われます。実際、「福澤心訓」とも呼ばれているのだとか。過去には「心訓」を額装して販売する業者もいたというから、真の作者はいわゆるゴーストライターとして著作権を放棄し、業者丸儲けだったのか…?!等と邪推してしまいます(苦笑)。
書かれていることは至極まっとうで、「心訓」の名にふさわしいものなのですが、これがもし、どこの馬の骨とも分からぬ人の署名だったら、果たしてここまで世の中に広まったのか…?と考えると、同じ言葉でも、“誰の言葉か”というのが重視されているのが痛感されます^^;;。
美術品や文章の鑑賞においては、「“誰の作品か”をありがたがる」作家推しのケースと、「作者が誰であれ“イイものはイイ”」という作品推しのケースの両方があるように思いますが、“世に広めてこその知財”という視点では、この「心訓」は本懐を遂げていると言えるのでしょうか…??(そうは言っても、諭吉先生にとってはやはり傍迷惑な偽作のままでありましょうが…)
著作者人格権は、決して著作物から切り離されることはありませんが、今回のことで、「やはり無記名の“ゴースト”は誰にとってもNGだし、ましてや他人の名を騙るなんて、あってはならないことだよな」と思ったのでした^^;;;。
【学問のすゝめ】今年は『学問のすゝめ』出版150周年。
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